第92回のWorker’s fileは、東京・上野にある国立西洋美術館の教育普及室にて、学芸員として働く白濱恵里子さん。日本随一の西洋美術専門の美術館を一般の方に親しんでもらうため、教育プログラムの企画・運営を行う白濱さんに迫ります。
東京都出身。小学生の頃に目にした油絵をきっかけに美術に興味を持ち、大学で美学美術史を学ぶ。卒業後、学芸員の資格を取得。その後大学院で美術科教育を専攻。美術館での非常勤職員や企業美術館勤務を経て、昨年4月に国立西洋美術館に着任。学芸課 教育普及室 特定研究員として、教育プログラムの企画・運営などを行っている。
◆アイデアを感じることで自分の中に変化が起きる場であってほしい
仕事内容を教えてください。
国立西洋美術館の展覧会は企画展と常設展の2種類あるのですが、これらを一般の方に親しんでいただくための教育プログラムの企画・運営を担当しています。例えば子どもを対象にしたプログラムでは、小中学生向けに企画展の内容を解説したセルフガイドブックを制作しています。また、学校単位で来館されることも多いので、そういった時には“美術館の見方”についてガイダンスを実施したり、実際に展示室内を一緒に歩きながら解説をする“ギャラリートーク”なども行っています。さらに、企画展では関連イベントや講演会を開催することがあるので、それらの運営も業務の一つになります。
現在の仕事に就くまでの経緯を教えてください。
小学4年生の時にルノワール展に行き、そこで初めて油絵を見たんです。それまではクレヨンや水彩の絵にしか触れてこなかったのですが、艶があり、まるで本物のように見える絵にすっかり魅了されました。その時に見たのは『ピアノを弾く少女たち』という作品だったのですが、頬の赤さや柔らかそうな手、衣服や髪の質感に引き込まれて、お土産でその絵の絵葉書を買って大事にしていました。中学生の時には模写の授業でこの絵に挑戦したりと、美術には興味があったんです。けれど中学校で美術部に入ると、自分よりも絵が上手な人がたくさんいるわけです。そこで自信を失ってしまいました。そんな中でも私は美術が好きだったので、どうしたら美術に関われるかということを悩んでいて。高校に進学してからも同じ悩みを持っていたのですが、ある日授業中に美術に関するビデオを観る時間があったんです。それは江戸時代のとある絵師の話だったのですが、平面である絵に、見えている通りの三次元の世界を西洋の技法で描こうと挑戦した人がいたことを知って驚きました。それと同時に美術を研究する“美術史”という分野があることを知り、自分も観る側のプロを目指そうと思ったのです。その後、大学では“美学美術史”という分野を学び、教育にも関心があったので、美術の教員免許も取りました。しかし自分が美術の制作を教えるイメージが持てず、卒業後は美術の業界を一旦諦めて一般企業で仕事をしていました。けれどそんな中でも、“自分が学んだ美術史の豊かさや、美術を鑑賞する面白さを伝えられる仕事があればいいのに”ということは思っていたんです。その後やはり諦めきれずに、自分で学芸員の資格を取ることにして。その最中に美術館教育という分野に出合い可能性を感じました。そこから大学院に行き、鑑賞教育や美術館と学校教育の連携について研究しました。美術館で働けば、美術の面白さを幅広い年代の人に伝えることができ、さらには一緒に楽しめるのではないかと考え、美術館で働きたいと思うようになりました。大学院に通っていた時は、実地で学びながら研究したいと思っていたので、都内の国立美術館でアルバイトを始め、その後、非常勤職員として経験を積み、企業美術館に16年間勤務しました。そして、昨年の4月に国立西洋美術館で働き始めました。実際に美術館で働くと、扉を開けるとそこはもう展示室です。作品に囲まれて作家の息遣いを感じながら仕事ができることは、この上ない喜びですね。
初めて美術館で働かれた時はどのように感じましたか?
当時多くの学校では、美術の授業時間数も少ないことから鑑賞は美術館に行くものではなく、文化祭などでお友達同士の作品を観ることでカリキュラムを消化することも多かった時代。美術館は大人のものというイメージも強かったのです。そのため、美術館にはなかなか子どもが来ない環境で、どうやったら子どもたちに作品を面白く見てもらえるか模索していました。美術館が作る解説ガイドは、“この作家は何年にどこで生まれ、こういう学校で学んだ。こうした作品を描いて賞をもらって……”という大人に向けたものがほとんどでした。それを読むだけでは子どもたちには作品の面白みがわからないですよね。そうではない見方や楽しみ方をしてもらうにはどうすればいいのかということを考えながら仕事に取り組んでいました。現在もより幅広い対象やニーズに応じた教育プログラムを企画するように努力しています。
その一つであるギャラリートークにも複数のやり方があるのですが、私の場合はまず作品の前に来てもらって、作品の気になるところを見つけてもらうことから始めます。そして参加者それぞれが気になるところを自由に言ってもらい、私からは作者が生きた時代の状況や、その時の作者の心境などといった情報も提供します。それを踏まえた上で、“だからこの色なのかな”とか“だからこの形なのかな”と想像して、一緒に考えていくようにしています。そうすると参加した人は、自分がもともと知っていることや個人的な思い出など、いろいろな記憶が引き出されて言葉になるんですよ。作品鑑賞をきっかけにみんなで考えを共有していると思わぬ発見がありますね。さらには、作品に触発されて、“次はこういうジャンルの絵を見に行こう”や“ぜひこの場所に行ってみたい”、“こんな色の服を着てみたい”など、生活の中の新しいアイデアが生まれることも。美術館の楽しみ方は人それぞれ違っていてよいと思うのです。当館ではボランティアによる「スクール・ギャラリートーク」や「美術トーク」、「建築ツアー」なども行っています。今は多くの美術館でプログラムが行われるようになり、楽しみ方を選択できる時代になりましたね。
仕事のやりがいを教えてください。
私は絵を鑑賞してもらう際、まずは絵の前に立って一緒に観る時間を設けています。自分が気になるのは色なのか形なのか、描かれている人物なのか、それらはどんな感情をもっているのか考える時間です。風景画だとしたら、季節や時間はいつ頃なのか、どんな空気が流れているのかを問いかけて、さらにそう感じた理由を考えてもらうんです。解説をお話しするのはその後。情報よりも先に目で見た経験があると、自分なりの気づきを得ることができます。それを複数人でやることによって、「絵の見方が広がった」と言ってもらえることがあって。さらには「また参加したい」というお話も聞くと、やりがいを感じますね。美術館はさまざまな制作背景をもつ作品と出合えるので、たとえば遠い国や時代へと想いを巡らせたり、新たな発見をしたりと新鮮な学びが得られる場だと思います。多様なアイデアを感じることで自分の中に変化が起きる場であってほしいなと思っています。
印象に残っている作品を教えてください。
ろう学校向けプログラムを研究している仲間のスタッフを通して、耳の聞こえない3歳の子たちに対してギャラリートークをする機会があり、その時に一緒に見た絵が忘れられない作品になりました。手話の通訳者やろう学校の先生を通して子どもたちと対話をしたのですが、生まれて3年しか経っていないのに、自分が知っている限りのことと結びつけて、絵について気がついたことをたくさん言ってくれたんですよ。その時に鑑賞したのは、1500年代にイタリアで描かれた聖母子像の絵だったのですが、大人が観ると「聖母子像だ」と理論的に考えますよね。でもその時の子どもたちは「これは女の人と赤ちゃん、この赤ちゃんは男の子だと思う」と言うんです。どうしてそう思うのかと聞くと、「おうちに赤ちゃんがいて、その子が男の子だからわかる」と。自分の体験と結びつけて、この絵の赤ちゃんは男の子だと感じていたわけです。さらに、「赤ちゃんの頭の上に輪っかがついている」や「お母さんが手に何かを持っている」と。この手に持っているのは小さな本のように見えるのですが、子どもたちは「携帯電話を持っているのかも!」などと楽しく想像を広げていました。この子たちはこの日に感じたことを忘れてしまうかもしれない、けれど言ってくれた感想の全てが、この子たちの成長の一場面だったと思います。そこに立ち会えたことが私にとっての喜びでした。日本の美術館では今、障がいの有無にかかわらず多様な人たちが気兼ねなく来館できる美術館を目指して、さまざまな取り組みを始めています。私自身も本当に良い経験ができたなと感じましたね。
学芸員に向いているのはどんな人ですか?
美術や美術館が大好きで、魅力を伝えたいという情熱があること。あとはコミュニケーション力ですね。国立西洋美術館には、美術史を専門に研究し展覧会の企画をする学芸員もいれば、作品を管理して保存修復をする保存修復・保存科学部門の学芸員、美術の専門図書を扱う司書、私たちのような教育普及担当など、さまざまな分野のスタッフがいます。それぞれのプロフェッショナルと協力して運営するのが美術館です。美術だけを見ていても良い仕事はできません。美術と来館者をつなぐことを意識しているからこそ、良い仕事ができると思っています。
美術館を訪れたことがない人に向けて、美術館の魅力を教えてください。
美術を楽しむ場ではあるのですが、もっと気軽に立ち寄ってほしいと思っています。CAFÉ すいれんやミュージアムショップは展示を見なくても利用できます。あと、美術館は建築も面白いです。国立西洋美術館はル・コルビュジエというフランスの建築家が設計した世界文化遺産にもなっている建造物なので、素敵な建築を味わうという楽しみ方もおすすめです。これだけ天井が高い空間は、我々が生活するような住居にはなかなかないので、非日常を味わいに来てほしいですね。また、外国に行かないと見られない作品も展覧会では見ることができますし、夢を膨らませる場所として美術館を利用していただければと思います。
お仕事言葉辞典 教育普及担当学芸員編
【対話型鑑賞】 たいわがたかんしょう
グループで対話を重ねることで美術作品を読み解いていくという、美術鑑賞の手法。アートを読み解く観察力や、それを言葉にするコミュニケーション能力、他の人の意見を聞く傾聴力などが培われる。
お仕事道具見せてください
資料等を持ち歩くためのバッグ
さまざまな資料が必要となる学芸員の仕事は、常にトートバッグを持ち歩きます。作品を汚さないよう展示室内はインクの持ち込みが禁止されているため、筆記用具は鉛筆のみ。トートバッグは国立美術館のオリジナルです。
INFORMATION
『国立西洋美術館』
【住所】 東京都台東区上野公園7番7号
【開館時間】 9:30〜17:30
※金曜日・土曜日 9:30〜20:00
※入館は閉館の30分前まで
※毎週月曜日は休館日
(祝休日は開館し、翌平日休館)
【常設展観覧料】 高校生無料
(入館の際に学生証または年齢の確認できるものを提示)
大学生250円、一般500円
公式HP▼
https://www.nmwa.go.jp/jp/